神々の鎮座まします霧島の山々を宮崎県の側から眺めます


by ai-bannri
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一人暮らしに何ほどの道具が要ろうかと高を括っていたが、毎日のように100円ショップやDIYの店「ハンズマン」に立ち寄っている
食器棚をネットオークションで物色しているが帯に短し・・・・である。
安い板とすのこで何とかしようと、棚の足に丸太を割ったようなのも買ってきた。
一対およそ600円は高いような気がする。
2段目にはとがらんとした部屋を見回すと



あった
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トイレットペーパーと布

なんてぴったりの高さでしょ(^^♪
3段目の足は発泡酒の缶(^_^)

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by ai-bannri | 2006-11-16 20:39 | 荒磯のうた

とりあえず

なには無くとも我が家にも秋は訪れるけれど、本当に何も無いのはつまんないものだ。
玄関の壁にスカーフを貼って絵を添えたd0038294_20174886.jpg


その下にダンボールを風呂敷で包んでスカーフをかぶせて花を置いた
花器は大きめの和食器
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暖簾棒のようなものはいくらでも手にはいるのであまり布でスリッパ入れを作った
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by ai-bannri | 2006-11-16 20:21 | 荒磯のうた
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アジア一帯の植民地化をねらうヨーロッパ諸国を脅威と感じた斉彬は西洋文明と取り入れて薩摩藩の力を蓄えることに英知を注いだ。

磯に築かれた工場群「修正館」を中核に、製鉄、造船、紡績、造砲、印刷、出版、教育、製薬、精糖、ガラス工芸、ガス、医療等、多岐に及ぶ。

日本最初の溶鉱炉、水車動力を利用した紡績工場、外貨獲得のための薩摩切子や薩摩焼、洋式ドッグでは1854年に370トンの洋式軍艦を完成させている。

d0038294_23374857.jpg斉彬は安政5年(1858)58歳で死んだがその夢は弟の久光やその子忠義、さらには西郷や大久保利通らに受け継がれ近代日本の夜明けの礎となった。

修正館機械工場だった建物は博物館となり当時の機械工具や書類などが展示されている




磯の仙巌園を後にして鹿児島の中心地へ、入るもののレンタカーを返すには早い時間なので幼馴染の家に行きおもたせの弁当で早い夕食を済ませて駅前の店にレンタカーを返して天文館のあたりまで歩いてみる


平成5年の豪雨のときに大暴れした甲突川に架かる高見橋を渡ると大久保利通の像がある。
d0038294_064032.jpg明治11年に暗殺されたときはその2日後には早くもロンドンタイムスにその訃報が掲載され「彼の死は日本国の損失である」と書かれた。


が、
圧倒的は人気者の西郷隆盛と西南の役では敵味方に分かれたためか、鹿児島では評判は悪くこの銅像も「なんでないのだ?」と県外の人々にせっつかれて建てたのだという。



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堂々とした像は、高見橋の中ほどにある稚児たちが群れ遊んでいる象と対比していい風景を作っている
by ai-bannri | 2006-05-12 23:38 | 旅行
蒲生町を後にしていくつかの町を抜けて海岸伝いに国道10号線を走る。
右手はJRの日豊本線だ。
目の前に櫻島が相変わらず噴煙をあげている。
手前の海には養殖筏がういている。
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山は海岸線すれすれに迫り、狭いところを国道と鉄道の線路が肩を寄せ合うようにして鹿児島に向かっている。
平成5年の8月6日、100年に一度とも言われる集中豪雨で背後の山はもろくも崩れ線路、下の国道ともども飲み込まれてしまった。
近くの竜ヶ水駅には列車が停車中で数百人の乗客と国道を走るドライバーあわせて650人は駅に取り残された。
このときの模様は、NHKのプロジェクトX挑戦者達「絶体絶命 650人の脱出劇」に詳しい
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今日は雲も多くどんよりとしているが波は穏やかで現場あたりは復旧されて安心してドライブをする。


やがて仙巌園の標識が見えてきて、ナビの声も到着を知らせている。

薩摩島津家は江戸時代まではその生活は城山の麓の鶴丸城にあったが、明治維新後の廃藩置県で、それまで別邸として使われていたここが生活の拠点となった。


駐車場に車を入れて入場券売り場へ。

足の不自由な母に気を使って今まで経験できなかった御殿の見学と抹茶をいただこうと通しの券を求める。1500円。
見学の時間は20分おきというし、ころあいもよいのでまずは御殿に向かう
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着物姿が良く似合う女性が御殿の中を案内してくれる

当時は部屋数75ほどあったが現在は25ほどが保存されている。
案内してもらうのはそのうちの10部屋ほどで、29代当主忠義が日常生活を送っていた部屋、謁見の間、贈り物などを飾る部屋、湯殿やご不浄もあった。
あまり華やかな印象は感じられ無かったが鴨居の釘隠しなどは桜島特産の大根のモチーフもあった。
琉球王国を通じた明や清との交易により中国風な影響も受けてあちらでは福をよぶ蝙蝠のデザインのものが印象的だ。
忠義は明治38年58歳でなくなるまで髷はきらず着物で一生を送ったらしい。
娘の一人は久邇宮の妃となりその女王は天皇の皇后となり後に香淳皇后と号される

忠義が執務を取っていた座敷から庭を隔てて眺めると煙を上げる桜島が見える
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7本の幟が風に揺れていた
(写真は仙巌園の公式HPから)
長子のためには7本を次男は5本を立てていたらしい

斉彬が日本では初めて使用したガス灯をともした石の灯篭ー鶴灯篭も見える
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部屋の案内が済むと昔来客の主人に付き従ってきた供が待つ部屋に案内され、中庭を眺めながら銘菓「飛竜頭」と抹茶をいただく
茶碗は「磯お庭焼き」の無地の白薩摩

写真撮影が許されなかったので屋内の様子がここに紹介できないのは残念。
by ai-bannri | 2006-05-12 12:26 | 旅行

父祖の地

蒲生町は父祖の地でもある

むろん、住んだこともないし訪ねたことも無かった
そこで生まれた祖父は海軍に入ったのをしおに本籍地も呉の近くに移したらしい。
自分が生まれる何日か前に祖父は亡くなり父は火宅の人で古人のあれこれを語ってくれる人はいなかった。
ときおりに母から聞いた話と父の晩年の「ほら」の中からほんの少しうかがえるぐらい。

それでもこの町は何か懐かしい。

もう一度役場に戻りそのあたりを歩いてみる
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島津氏は鶴丸城を本拠地にしていたが、藩内には120ほどの外城を持ち郷士たちで守りを固めていた。
城は構えず(一国一城令があった)地頭を置き行政や軍事を治めさせていた。
士分たちの住む地域は麓と呼ばれ武家屋敷の名残は今にとどめている
この町には戦死した人々の慰霊碑がある。
日清日露、戊辰の役、関が原の合戦・・・

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役場の門は昔風なものだ。
横に立て札があってそれを読むと
地頭仮屋の正門で「お仮屋門」という。
仮屋とは現在の役場にあたる。
この門は以前のものが腐朽したので文政9年(1826年)に再建された、とある。

観音開きの大扉や不浄門に昔日の面影が見られるこの門はすべてクスノキが使用されている。
近くにあるイヌマキも樹齢400年というから江戸の香りを今に伝えているわけだ

役場の前の土産物を売っているクスクス館は無料休憩所のコーナーもあって付近の人らの語らいの場所になっていた
なんとパソコンも置いてあって「ゲームはしないでください」と張り紙がしてあった
鹿児島ではインターネットカフェも見つけにくいのでしばし開くのを待っていたが、一人若者がその場を離れようとしない。

そのクスクス館の庭に建つブロンズの像はどうも気になる。
d0038294_1525669.jpgこれは馬だろうか
by ai-bannri | 2006-05-12 01:53 | 旅行