神々の鎮座まします霧島の山々を宮崎県の側から眺めます


by ai-bannri
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坂本 職人の技

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蕎麦屋の駐車場に車は置かせてもらって、店の人に教えてもらった道をとって滋賀院門跡に行く。
坂本は比叡山のケーブルの上り口だけれど、由緒のある神社や寺があり見所の多い観光地でもある。
緩やかな坂を歩く道の両側に穴太衆が積んだ石垣が続く
このあたりに住んでいた石垣積みの職人たちは穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれて各地の大名に呼ばれて城の石積みをした。
およそ30人が一組になって遠くは江戸城から小倉、四国の城の石垣も彼らの手による。
野面積みで自然石の形状を生かして大小の石を取り混ぜて積んである。
無造作に見えるがこれが崩れたのを聞いたことはない
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石には苔が生し、上に植えられた生垣はしっかりと根を下ろして渾然一体化して町並みの景観を高めている

滋賀院門跡は里坊のなかでも、格式が高く、比叡山の座主の老後の生活の場所だった
天海僧正のためにここが里坊として与えられ御所の建物を移した。
後水尾天皇より滋賀院の名を賜った。
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入り口すぐの間に掲げてある「亡己利他」の書
最澄は自著『山家学生式(さんげがくしょうしき)』のなかで「忘己利他慈悲極」と説き、これが大乗仏教の根本思想であり、釈迦が説いた仏教の原点だと考えた。
「もうこりたはじひのきわみ」と読む。
音だけを聞けば、最澄が説いた教えが現代人の思惑に変化しているようで面白い

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杉板の衝立に描かれている絵は江戸初期の狩野派のもの。
この寺はどの部屋も写真はOKでフラッシュも焚ける。
いいのだろうか?丸山応挙の絵だって目の前にある。

順路に沿って進んでゆくと部屋ごとに江戸時代の名手の手による襖絵や大ぶりの書がかけられている。
何の保護もしていないので今までの200年余で落剥したぐらいには年とともにかすんでいくのだろうかと余計な不安に襲われる。

左手の庭を見るとそこは「蹴鞠の庭」と案内がある
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もっと詳しい写真はHP滋賀院門跡に紹介されている
今は植え込みが多くて鞠などの遊びはとても危ないが、300年前は何もない庭だったのだろう。
60歳を過ぎてからすんだといっても天台座主の出自は高貴なものだ。
慣れ親しんだ遊びをしたり、見たりして楽しんだに違いない
蹴鞠
ボールを蹴って遊ぶのも、大和民族とアングロサクソンではずいぶん趣は違うと、あのサッカーの試合(中国:北朝鮮)の激しい場面を思ってしまった。

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現在でも延暦寺の大きな行事には使われる輿が置いてある
実は滋賀院門跡は明治18年に火災で焼けて御所から移した当初の建物は消失した。
里坊としてはもっとも重要なものだから調度類はお山からかなり移されたらしい。
江戸時代のものが多い。
この輿は200年ほど前に作られたもので10人がかりで担ぐんだそうだ。

小堀遠州の作の庭が見える部屋の一つに釈迦涅槃の図がかけられているが、川に泳ぐ魚まであるのは珍しい。
それに、さまざまな動物の中の「象さん」のユニークなこと!
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見たこともないものを描けばこんな風になる
by ai-bannri | 2006-07-30 07:30 | 旅行
旧暦で言えば今日は6月16日だから光秀が小栗栖で名も知れぬ土民の槍にかかってから3日経つ。
明日は本能寺に首が晒され、10日後には清洲会議で秀吉の天下人への道が拓く。
天下を分けた大事件はしとどに降る雨の中だったのだ。
梅雨だもの

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大山崎のある天王山の向かいの山は男山で岩清水八幡宮がある
高校で習った徒然草の中にこの神社が出てくる

仁和寺にある法師、年寄るまで岩清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり・・・・
  御室から片道20キロぐらいある・・・・ふもとにある極楽寺などを参拝して「こんなものか」と納得して帰り、参拝の話を知り合いに言った。

参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず・・・
 その山の中に八幡宮はあるのだ。
何ぼ年寄りで、ものは知っているつもりでも初めてのところには案内してもらいなさいよ・・・。

男山の南側は宅地造成されてびっしりと家々で覆われている。
あの境目あたりが「洞ヶ峠」かしら。
山崎合戦をあのあたりから高みの見物でどっちつかずと決めかねた「筒井順慶」の「洞ヶ峠を決め込む」の言葉の起こりだけれど彼はその日大和郡山の城にこもっていたらしい。

今日はうす曇だけれど、はるかな山までよく見えて桃山城や醍醐の山なみも見える。
山城平野の隘路にめがけて三川が寄りひとつになって目の前は淀川だ。


今月の「着物を着て京都でご飯を食べるかい」は大山崎山荘でお弁当にした
10時過ぎに千里阪急の「なだ万厨房」に行き、予約をしてあったお弁当を受け取って、約束の時間に間に合うように吹田のインターから名神に入り山崎まで走る(750円)
山荘の入り口近くでお弁当とペットボトルのお茶、お絞りを渡して、庭の東屋に行き、まずは荷物を軽くしましょうと先に食事。
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東屋に先客がいたらと、レジャーシートなどを持ってきたけれど、おりよく自分たちが一番乗りで独占できた。
なだ万の弁当は好評でこれに決めた私はほっとする。


食事のあと、一段高いところにある美術館をみる
下見のときもいくつかの睡蓮が咲いていたが今日も顔を覗かせていた

美術館では舩木倭帆(フナキジズホ)ガラス器展が開催されていた。
案内を読むとこの美術館のゆかりの濱田庄司、河井寬次郎やバーナードリーチとは、父親が親交があった、
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涼やかな器が山荘の緑に溶け込むように心地よい。




2階に上がってお茶にしましょうときれいなステンドガラスのはめ込まれた階段を上がる
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大山崎山荘は、大正時代から昭和にかけて、大阪の実業家であった加賀正太郎氏が築いた 英国風の広大な邸宅だった。
建築に20年もかけたという。
ステンドグラスも吟味怠りなく選んだのだろう。
中央のたおやかな西洋美人に施主のロマンを感じる。

2階にはトイレットとバスルームもあった。
今でも何回か鳴る大きなオルゴールもある。
ティールームでコーヒーとケーキを注文する。d0038294_2121790.jpg

バルコニーに出て周りの景色をながめる。
すぐ下にたっぷりとした緑のもみじの木が風にそよいでいる
「秋にはまたきましょうね」とその秋の色を思って誰もが固い約束をする。

安藤忠雄の設計したモネの絵の展示室を見たら、もう一度庭を散策しよう
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真夏の着物はどうにも苦手で着物ショップに掘り出し物があっても食指は動かない、どうにか持っているしじら織りの一重で参加した。


着こなせば夏物は案外に涼しいものだ。
見ている人はもっと涼しい。d0038294_21123516.jpg

絽の着物、帯も絽いかだ流しの様子が手刺繍で入っている




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麻の着物に麻の帯、伊勢型紙の文様はユニークだ。


お弁当1575円、お茶130円、入館料700円(駅で買えば600円)
駅の駐車料金30分150円、
コーヒー450円 ケーキ350円
by ai-bannri | 2006-07-11 18:36 | 旅行

関の山

d0038294_1502192.jpgいっぱいいっぱいの様子を表す「関の山」は亀山にある関の宿から起こったという。
東海道が通じていて宿場町として栄えていた。
鈴鹿の席は、美濃の不和の関、越前愛発(あらち)の関とともに古代から要衝の地として知られている。
江戸時代には東海道53次の47番目の宿として賑わった、
むかし、ここの祭りの山車は16基もあってそれぞれが華美を競った、
狭い町の軒をえぐるように練り歩いたことから「関の山」の言葉が生まれた、
上の写真は都に向かって東海道を写す。山は鈴鹿山系

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これは
『関の地蔵に 振袖着せて 奈良の大仏婿に取る」と歌われた地蔵院の本堂
この寺の前に孝女「小万」が養女となって武芸に励んだ「あいづや」がある
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この写真は三菱東京UFJ銀行のサイトから
「安藤広重東海道五拾参次―保永堂」より
by ai-bannri | 2006-06-22 15:13 | 荒磯のうた

島原大変-②

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人の人生で大変なことといえばなんだろうか。
出産や結婚などはそのときは大変だろうけれど、喜びごとだからあまり苦には思わない。
神戸の友人達にとってはやはり震災だろう。
防ぐことの出来ない思いもよらない災難だもの。

島原の最も苦難の歴史は多くの人が死んだ島原の乱(1637)だと思っていた。
日本史の時間にも習ったし、小説にもあった。

島原の乱など、島原や天草の人にはあまり縁はないのだ。
先祖をたどればよその土地だ。
あの乱のあと島原には男も女も老人も子供もいなくなった。
40000人の村人は一人残らず死に絶えた
無人の土地に多くの藩は強制的に農民を移住させ、租税も軽減されたので流れてくる人も黙認され、50年もしたらよそには見られぬほどの暮らしやすい土地になった。
過酷な圧政を強いて乱の原因を作った松倉重治は死罪になったが彼が築城した豪壮堅固な城は明治維新に廃城となるまで253年間この地にそびえていた。

写真の城は昭和39年(1964)に復元されたもので資料館となっている。

だから島原の「大変」は1792年の地震と津波の災害なのだ。


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島原の武家屋敷。
道の真ん中に細い川が流れている、3キロほど山手の湧き水を引いている。
手をつけるとしみるほどに冷たい。ヘリには草花が茂ってしぶきを受けている

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「島原大変」のときに地下水脈は大いに動いてあちこちに湧水が出来た。街の中ほどにある白土の池も一夜にして出来たらしい。
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商店街の中を流れる水路には鯉も泳いでいる。

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武家屋敷の屋根の向こうに普賢岳の平成新山とその前の眉山が見える。
by ai-bannri | 2006-06-08 00:20 | 旅行
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アジア一帯の植民地化をねらうヨーロッパ諸国を脅威と感じた斉彬は西洋文明と取り入れて薩摩藩の力を蓄えることに英知を注いだ。

磯に築かれた工場群「修正館」を中核に、製鉄、造船、紡績、造砲、印刷、出版、教育、製薬、精糖、ガラス工芸、ガス、医療等、多岐に及ぶ。

日本最初の溶鉱炉、水車動力を利用した紡績工場、外貨獲得のための薩摩切子や薩摩焼、洋式ドッグでは1854年に370トンの洋式軍艦を完成させている。

d0038294_23374857.jpg斉彬は安政5年(1858)58歳で死んだがその夢は弟の久光やその子忠義、さらには西郷や大久保利通らに受け継がれ近代日本の夜明けの礎となった。

修正館機械工場だった建物は博物館となり当時の機械工具や書類などが展示されている




磯の仙巌園を後にして鹿児島の中心地へ、入るもののレンタカーを返すには早い時間なので幼馴染の家に行きおもたせの弁当で早い夕食を済ませて駅前の店にレンタカーを返して天文館のあたりまで歩いてみる


平成5年の豪雨のときに大暴れした甲突川に架かる高見橋を渡ると大久保利通の像がある。
d0038294_064032.jpg明治11年に暗殺されたときはその2日後には早くもロンドンタイムスにその訃報が掲載され「彼の死は日本国の損失である」と書かれた。


が、
圧倒的は人気者の西郷隆盛と西南の役では敵味方に分かれたためか、鹿児島では評判は悪くこの銅像も「なんでないのだ?」と県外の人々にせっつかれて建てたのだという。



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堂々とした像は、高見橋の中ほどにある稚児たちが群れ遊んでいる象と対比していい風景を作っている
by ai-bannri | 2006-05-12 23:38 | 旅行
蒲生町を後にしていくつかの町を抜けて海岸伝いに国道10号線を走る。
右手はJRの日豊本線だ。
目の前に櫻島が相変わらず噴煙をあげている。
手前の海には養殖筏がういている。
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山は海岸線すれすれに迫り、狭いところを国道と鉄道の線路が肩を寄せ合うようにして鹿児島に向かっている。
平成5年の8月6日、100年に一度とも言われる集中豪雨で背後の山はもろくも崩れ線路、下の国道ともども飲み込まれてしまった。
近くの竜ヶ水駅には列車が停車中で数百人の乗客と国道を走るドライバーあわせて650人は駅に取り残された。
このときの模様は、NHKのプロジェクトX挑戦者達「絶体絶命 650人の脱出劇」に詳しい
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今日は雲も多くどんよりとしているが波は穏やかで現場あたりは復旧されて安心してドライブをする。


やがて仙巌園の標識が見えてきて、ナビの声も到着を知らせている。

薩摩島津家は江戸時代まではその生活は城山の麓の鶴丸城にあったが、明治維新後の廃藩置県で、それまで別邸として使われていたここが生活の拠点となった。


駐車場に車を入れて入場券売り場へ。

足の不自由な母に気を使って今まで経験できなかった御殿の見学と抹茶をいただこうと通しの券を求める。1500円。
見学の時間は20分おきというし、ころあいもよいのでまずは御殿に向かう
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着物姿が良く似合う女性が御殿の中を案内してくれる

当時は部屋数75ほどあったが現在は25ほどが保存されている。
案内してもらうのはそのうちの10部屋ほどで、29代当主忠義が日常生活を送っていた部屋、謁見の間、贈り物などを飾る部屋、湯殿やご不浄もあった。
あまり華やかな印象は感じられ無かったが鴨居の釘隠しなどは桜島特産の大根のモチーフもあった。
琉球王国を通じた明や清との交易により中国風な影響も受けてあちらでは福をよぶ蝙蝠のデザインのものが印象的だ。
忠義は明治38年58歳でなくなるまで髷はきらず着物で一生を送ったらしい。
娘の一人は久邇宮の妃となりその女王は天皇の皇后となり後に香淳皇后と号される

忠義が執務を取っていた座敷から庭を隔てて眺めると煙を上げる桜島が見える
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7本の幟が風に揺れていた
(写真は仙巌園の公式HPから)
長子のためには7本を次男は5本を立てていたらしい

斉彬が日本では初めて使用したガス灯をともした石の灯篭ー鶴灯篭も見える
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部屋の案内が済むと昔来客の主人に付き従ってきた供が待つ部屋に案内され、中庭を眺めながら銘菓「飛竜頭」と抹茶をいただく
茶碗は「磯お庭焼き」の無地の白薩摩

写真撮影が許されなかったので屋内の様子がここに紹介できないのは残念。
by ai-bannri | 2006-05-12 12:26 | 旅行

近江商人の郷―②

日牟礼八幡を参拝した後「たねや」に寄って土産物などを買う

鳥居をくぐって八幡堀を少し歩いて
d0038294_21553938.jpg「浜ぐら」で牛丼と赤いコンニャクの田楽を食べる
べんがら格子を染める染料で赤く染めているらしい。d0038294_21212852.jpg
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写真は土産物屋の赤コンニャクと丁子麩

通りに面したところに若い娘が差し出す花を受ける紳士の像があるd0038294_20311425.jpg

馴染みの多いメンソレータムの会社「近江兄弟社」の創始者のウイリアム・メレル・ヴォーリズ
最も今はメンタームではあるが。
宣教師として来日したもののその功績はあまりにも多岐にわたっている。
詳しくはホームページで。
近江商人は琵琶湖の鮎と同じで地元ではつましく質素であるが外へ出れば大きく育つことで知られる。
安土の城の炎上を見、名君の秀次の非業の最期を聞けば武士を頼みとして生きてゆくのは拒みたかったのかもしれない。
郷土資料館で500円のチケットを買って郷土資料館と歴史民族資料館、旧西川家などを見る
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外に出て豪商の館のうだつとみこしの松に送られる
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by ai-bannri | 2006-04-22 21:47 | 旅行

哲学の道

美人を作るのは水だという。秋田の水は美味しいとか、加茂川の水で産湯を使ったとか言うではないか。
ならば、京美人をはぐくむのは琵琶湖の水だ。
山紫水明というだけあって湧き水も豊富だが上水道は琵琶湖の水に頼っている。
京阪神はおおむねそうだ。
明治の初めに京都市は年間予算の何倍もの費用を費やして、三井寺のある長等山をくぐらせて琵琶湖の水を引いた。工事期間5年で明治23年完成。
大学を出たばかり21歳の田邉朔郎を技師に任命したのも英断だろう。
当時は日本の各地でお抱え技師の外国人が土木建築の指導に関わっていた。
夜学んでそれを昼使ったというからすごい。
写真は京都側のトンネルの出口。
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この水は蹴上の傾斜を利用して、電気を起こし、京都の近代化の助けになった。
水は二つに分かれて一つは南禅寺の境内を取って銀閣寺あたりへ北上し松が根のあたりで飲み水を採取され高野川にいたる。
もうひとつは白川あたりで鴨川に。
南禅寺近くの若王子から銀閣寺に至る疎水の道は「哲学の道」と呼ばれているd0038294_21353188.jpg
写真はいずれも京都水道局の公式サイトから

およそ2キロの道のりで、さっさと歩けば25分、道草を食えば何日もかかる・・・。




鹿ケ谷山荘の会食を終えて帰りは坂道を歩いておりた。
目の前に京都の町並み遠くに御室のあたりの双岡、その向こうには愛宕山が見える。
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同行の娘さんの着物は絣で帯は時代がかったレトロなかんじ。青葉もきれいな山道に良く似合う
途中に8月15日の送り火の場所に行く細い道が分かれていた

鼻緒が指に食い込むほどの坂道を用心しながら下り終えると哲学の道に出た
冷泉天皇の御陵のあたりだ。
桜もまだきれいなのでこのまま歩くことにした。
疎水の則面にはミツマタや馬酔木、山吹の花が咲いている
ハラハラとソメイヨシノの花びらがそよ風に舞う風情も良い
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この写真は「京都哲学の道案内」というサイトからお借りした
ここのサイトの写真はどれもとても美しい、ぜひご覧になって!

なお哲学の道という名前は哲学者西田幾多郎博士が京都大学にいた頃良く歩いたからといわれている。
銀閣寺よりのところに彼の碑がある
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「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」

われわれの世代からみたら、当たり前に思える言葉が鞍馬石に刻んである・・・・・
by ai-bannri | 2006-04-18 22:14 | 旅行

明治村のウエディング

このごろは昔ながらの金屏風の前に新郎新婦な仲人を従えて並ぶ結婚式にはついぞお目にかかったことが無い。
その形はさまざまだ。
明治村には3つの教会があるがここでは結婚式も挙げられる料金も3万円から10万円とお安い。バージンロードなどの設営も馬車も込みである
なんと披露宴もできるらしい。さっき見た帝国ホテルや岩倉ホールでやってくれる。
年間に100組以上のカップルがここで誕生する
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この写真は明治村の公式サイトのページから拝借した。
ザビエル天主堂の結婚式の模様である
こんな丸窓を通す明かりが花嫁をさらに美しくてらしてくれるだろう。
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下の写真は聖ヨハネ教会堂を桜の向こうにのぞむ
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明治村の3丁目のあたりは入鹿池に突き出す岬のようになっていて灯台もある。
神戸の北野坂辺りにあったのだろうか西洋間もあるそこへ行く道の山つつじが美しい
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by ai-bannri | 2006-04-15 20:13 | 旅行

春の明治村 4月12日

昔のものが何もかも良いわけではないが、良いものは多くある。
心も物も。
明治時代に建てられた建築物は老朽化したり高層建築の波に押されて取り壊されたりしてどんどん姿が見えなくなるのは惜しいものだ。
そんなことを思う人が多くあって昭和40年に愛知県の入鹿池のほとりに明治村が出来た。
当初は15件ほどの建物があったがやがてSLが走り、日本最初の市電、京都の市電も走り出した。
北門から入った。
料金1800円を払って、蒸気機関車を横目で見ながら坂道を降りてゆくd0038294_19264859.jpg

まず帝国ホテルの姿が見えてきた。
平日とあって観光客も少なく、しょざいなさげにしていた、ボランティアガイドの男性に案内してもらう。



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良い感じでとても良かった。
このホテルは大正時代に出来た。・・・でもここにある。
関東大震災の日が完成披露の日だったそうだ
びくともしなかったらしい。

ガイド氏の推薦で次は長崎の大明寺聖パウロ教会堂を見る
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外観は日本建築だが内部はゴチック様式になっている
明治12年といえばほぼ江戸時代の大工ではないか、名人だd0038294_1938670.jpg



この後教会は二つほど見て行くがこれが一番荘厳な思いがした

桜の花は満開だ。自然の丘や谷あいに程よく配置された明治の形に添うようにしっとりとしている

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by ai-bannri | 2006-04-15 19:40 | 旅行