神々の鎮座まします霧島の山々を宮崎県の側から眺めます


by ai-bannri
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11月13日ー蘇る街 一乗谷

いつの世でも、今日が平穏なら明日の不安はないだろう
日々の糧を得て子を育み助け合って集落は繁栄していくなら神にも仏にも感謝して年月を刻んでゆく。

一乗谷は福井県の山間にある
11月13日ー蘇る街 一乗谷_d0038294_12203447.gif北陸自動車道を福井まで走り福井インターで降りて国道158を越前大野に向けて走れば10分ほどで一乗谷朝倉遺跡への標識が見える。
発掘調査が始まってから40年近くなる。だんだんとその詳細が現れて町並みの復元もされてきた。
朝倉氏は今の兵庫県養父郡あたりの豪族で南北朝の戦乱で手柄を立てて越の国に移った
室町幕府から所領を受けたが守護の斯波氏におされ家臣となる。
織田氏も元は斯波氏の家臣だからこのときからの因縁はあるのだろうか。
応仁の乱で隆景は手柄を立ててついには大名となった。
このあと100年に渡って越前を支配した。
応仁の乱以後は俗に戦国時代と我々は習ったが人々の暮らしはどうだったのだろうか。
隣国加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれて一向宗の影響が強かった。
農民は租税を領主には納めずにに寺にわたしたという。

一乗谷では領主の館を中心に有力家臣、その近くには町屋が並び人口は1万人を数えたという。
11月13日ー蘇る街 一乗谷_d0038294_1334733.jpg狭い谷ださぞかしぎっしりと人々があふれていたんだろう。
復元された町並みを行くと排水の設備は良く整っている。
道の広いのには驚かされる
写真の右手は町屋、左は有力家臣の館である
武家の家では畳は一般的だったらしい。
簡単な茶室まである
トイレの便器の向きが今とは逆なのは戦国の世のならいだろう。
いつごろから今のようになったのだろうか。
団体旅行だったので時間の制限があり遺跡の一部分しか見学は出来なかったが、案内人の弁舌は巧みで聞かせるものがある
全容を見るには3時間じっくり楽しめば7時間は要るという。
庭園も復元されている
11月13日ー蘇る街 一乗谷_d0038294_13122910.jpg池泉回遊式の立派なものだ

朝倉義景の頃は信長が勢力を強め日本中が激震に見舞われた頃だ、足利幕府は脆弱になり将軍は寄る辺を頼って放浪した
朝倉義景は1年近くも庇護したらしい
ここは義昭には安穏の時だったのだろうか都にあらずして都の暮らしが出来たんだもの。
このとき足利義昭についていたのが明智光秀で娘の「玉」はここで生まれた。
後の細川ガラシアである。

朝倉氏はこの後織田信長と戦い敗れて一乗谷は火がつけられ全焼した。
後も内乱などを繰り返し繁栄を誇った都は姿を消してしまい400年の眠りにつく。

一乗谷のあたりを通っているJR越美南線は平成16年の水害で線路は絶たれ一乗谷~美山間は不通となっている。
いつ復旧されるかめども立っていないらしい。

写真はいずれもウエブサイト「戦国大名越前朝倉氏」からの引用による
by ai-bannri | 2005-11-14 13:28 | 旅行